オレの人生なんて、普通に終るんだと思ってた。

つい昨日までは。

ただ毎日働いて、ただ毎日残業して、給料が出て、疲れた首、ネクタイ緩めて
ビール買って帰る。

日常。

毎日の景色も見慣れたもん。

どこも知らないとこなんかない。

ここがオレの居場所で、オレのプレーフィールド。

ルールも把握。ここには何も怖い事も無い。

そうやって淡々と生きてる。

自分で生きていける。そんな大人になった。

つもり。







ねえ、君達は。覚えてる?

自分がどんな男になりたかったかって。


ホンの少年だった頃。

オレはどんな大人を夢見てたっけ?



残業を終え、疲弊した体で駅へ向かう。

その大通り、真夜中の繁華街と交差する道。

チラと見た視線の先。

目を顰めたくなる程のネオンの瞬きの中、合わされた瞳。

フイの偶然に体の真ん中、頭からズブリと針が刺さる。

膝が曲がらなくなる。

体ごと地面に刺し抜かれたような感覚。





”中澤 千垣(ナカザワ チガキ)。 強い男になりたい。”


それは、どんな男を夢見ていただろう?

スポーツ選手?消防士?警察官?



ケイサツカン?



黒いスーツの集団が彼の周りへはびこる。

ピンと張った背中。緩くカーブする黒髪は後ろへキッチリ流されている。

耳の後ろ、カーブする髪のライン。

襟足を遊ぶ毛先が白いシャツの襟に乗っていた。

少し束になる感じが同性でも色っぽかった。

彼一人、一度として頭を垂れる事は無いその姿に、息を飲んだ。

こんな男が存在する。

その現実に打ちのめされる。

もし、絶世の美女がオレの前に現れたってここまでの衝撃は無いだろう。

人間一人にこれだけ、打ちのめされる。

そんな事実に、生まれて初めて直面したのだ。


一歩も動けずに、伏し目勝ちに彼の乗り込んだ車を見送った。

真っ黒な窓は、無言で、派手なだけの電気を映し出していた。

車が通り過ぎる。

すると、まるで、この辺り一辺の緊張が解けたように時間が動き出した。

そこに居た誰もが彼らを注目し、固唾を呑んでいたような緊張。

それが過ぎ、一瞬の過去を忘れ去るためにバカ騒ぎを始める。

オレも体からホッと力が抜ける。

「警察なんかとは・・・真逆の人間だよ、アレは・・」

自分が呟いた声が耳に入って、頭の中で噛んで、それから笑いたくなった。

頬がニヤケるのを抑えて、眼鏡を押し上げる。




バカな考えが浮かんだ。

あの男の隣に立つ気分ってのはどんなもんなのか・・・と。

















1、運命の金曜日

目一杯、残業をこなし重い頭だったが、同僚の矢田と林と駅前の居酒屋へと繰り出した。

30も目前となると出るのは上司の愚痴ばかりだ。シゴトの出来るヤツ。出来ないヤツ。

それに尽きる。

言うだけ言うと次は女の話だ。しかも、自分のじゃない。誰かの女の話だ。

誰が結婚するやら、別れそうだとか、会議室でのセクハラの話だとか酔いの廻った頭は
そんなバカ話に大笑いする。

「くだらねえなぁ」

「くだらないねえ」

「バカばっかりさ」

3人で笑うだけ笑って店を出た。終電も近い。

脱いでいた上着を店の外で広げて、袖を通そうとした、時。

目の端に、あの男を見つけて固まってしまった。

地下にあるバーの入り口のような所で、男は誰かと睨みあっている。

「中澤?」

名前を呼ばれてビクッと同僚を振り向くと、パンッと音がした。続けてまたパンパンッ
と空が鳴った。

男、あの彼が、相手の腕、しかも拳銃を手にしている腕を下向きに押さえ込んでいる
ところだった!

「中澤!!」

呼び声にも振り返らず、オレは走っていた。

今、目の前に見えるのは揉み合う二人だけ。

彼の顔がオレに気づいて、その鋭い眼光がオレを捉える。

「こっちに来るんじゃねえ!!」

体が固まりそうになるのをムリヤリ動かす。

体のそこかしこがイキナリの全力疾走に、ブチブチと悲鳴を上げていた。

それから振り上げた上着ごと、両手を暴漢の頭上へと振り下ろした。

パンッ

足元で再び音が鳴った。

それから、ドサッと地面へ落ちる男。

その男を、荒い息で見下ろしてから、顔を上げると静かで冷たい表情がオレを見据えていた。

その目に殺されそうだった。

今乱れていた息さえ止まりそうな程だ。

そう見つめていたのは一瞬で、すぐに、ドタドタと足音が地下から上がってくる。

「社長!!」

「テメェ!!」

がなり声に竦む。

ドアが開いた途端にオレはその筋の男達に肩から地面へと押さえつけられた。

「社長、いったい・・?話し合いじゃなかったんですか?」

頭上で、彼の声が聞こえた。

「さぁな。話す事が無かったんだろう」

「無謀すぎますよ・・・」

溜息混じりの声に、ボソリと彼の呟く声がした。

「放してやれ」

「は?」

「ただのサラリーマンだ」

「え?」

戸惑いの声がすぐ近くからして、オレの体からサッといくつもの手が引く。

すぐに視線を上げたが、もう彼の姿はそこには無かった。

バタンと音がして、もう車へ乗り込んでいると気づく。

「ちょっと一緒に来てもらうぜ」

オレよりも若そうな男がオレを立ち上がらせて、すぐに側に来た車へと連れ込む。

乗り込む刹那、同僚の林と矢田の姿が見えた。呆然と立ちすくむ二人がこっちを見ていた。

言い知れない後悔が浮かぶ。

だが。

オレは今、ここにいる。

もう帰る事は不可能だった。

小さくなる人影を惜しむ事も出来ずに、押し込められた座席でオレは息を吐いた。









2、太陽の上がった土曜日

もぞり。狭苦しいソファの上から起き上がる。

夜中に自分で掛けたような気がするスーツの上着がバサリと落ちた。

遮光カーテンの合わせから陽光が染みるように入ってくる。

立ち上がろうとして、空き缶を蹴った。

昨夜の残骸だ。

「アンタ、どこの人なの?」から始まって、さんざん飲まされた。

一つ答えるとグラスに酒が注がれる。

いつになってもグラスが空になる事がなかった。

これで、このソファの寝心地が良かったら目は覚めなかっただろう。

向かいのソファで寝ている男が、少し動いたがそれだけだった。

ホッと息をつぎ、そっと歩き出した。

誰も起きてくれるなよ・・・。

椅子で寝こける男達を尻目に、オレはドアノブを掴んだ。

そして。

オレは。

ヤクザの事務所というところから脱出したのだった。

起き抜けに、これ以上緊張した事があっただろうか?

知らない女と居た時だってここまでの緊張はしなかった。

掌の汗を昨日から着たままのシャツに擦る。

ホッとすると今度は日常的な欲求が沸く。


フロに入りてぇ。

ワイシャツを脱ぎてぇ。

革靴を脱ぎてぇ。

今日は土曜だ。

オレは休みだ。

家でゆっくり寝よう。


エレベーターで一階へ降りる。

ヤクザの事務所は5階建てで見た目には普通の会社のような感じだった。

ただそれぞれの部屋に部署名が無い。

そして、「社員」数の割にパソコンが少ない。それだけだ。

たぶん、金融業なんかをする分にはそれで十分なスペックなのだろう。

と、ボーッとしていたら予想外に2階でエレベーターが止まり、ドアが開いてしまった。

ハッとして居住まいを正す。

「あ?・・・アンタ」

斜め上から見下ろすように、威厳たっぷりにエレベーターへ乗り込んで来たのは、
昨日の彼の側に居た男だった。

確か、新藤(シンドウ)と言った。たぶん31〜5位いだろうか。

「ナカザワさん。早いですね。まだ7時ですよ?もうお帰りですか?」

割とにこやかな口調だった。

「あ、ハイ。大分長居してしまってスミマセンでした。もう帰ります。お世話になりました」

儀礼的に頭を下げると、新藤はゆっくり体を回転させてオレの隣へ立った。

それから、黙って扉が閉じるのを見つめ、エレベーターが動くのを焦る気持ちで待った。

ここで、何を言われてもオレは帰る。

いくつかの会話のシミュレーションを頭の中で回想し、新藤に何を言われてもかわせる
ように用意した。

一階に着く。

新藤は動かない。

オレは再び、御邪魔しました、と丁寧に礼をして扉の外へ出る。

振り返らずにエントランスの自動ドアも抜け、目の前にはアスファルトが見えていた。

外だ。

「やっぱり、アンタ惜しいな」

真後ろから響く声にギョッとして振り返ると、いつの間にか新藤がくっついて歩いている。

それから、二の腕を掴まれた。

「度胸が半端じゃないねえ。惜しいよ」

動悸のせいか驚きすぎたせいか、声が出なかった。

「オレを振り返らなかったのも気に入った。大したもんだ。ハッタリって知ってるかい?」

オレは新藤を見上げながら、いや、と首を振った。

「男はねえ、どんな時だってハッタリかませなきゃ男じゃねえ。ブルブル震えてる時だって
オレは怖くねえって顔するのが男だ。そうしてるうちに、ハッタリもハッタリじゃなくなって
くる。アンタのハッタリは見事だ。オレでもどっちか迷ったね。本当は」

グッと新藤の手に力が加わる。

「オレが怖かったんだろう?いや、この業界怖いって思われてる内が華でね。
何もアンタは悪かない。」

その一言がオレのプライドをずたずたにした。

”怖い”

そう思ったらお終いだと思っていた。

頭の中からその言葉を出来るだけ遠ざけて、ここにいる人間だって人間なのだと、
自分に言い聞かせ、心を麻痺させて一晩辛抱したのだ。

”怖い”

新藤がオレの腕を引いて、すぐそこに留めてあった外車へと歩く。

ピピッと音がしてロックが外され、ドアを新藤が開ける。

腕は自由になっていた。

だが、逃げる気になんかならなかった。

怖い、だが今逃げてももう遅いのはわかっている。

新藤は、決めてしまったのだ。

オレを帰さないと。

今、彼が決めたのだ。

暗い車内へと乗り込む。バタンと新藤がドアを閉めた。

それから、新藤は運転席へと乗り込んだ。

オレがぐずらずに車へ乗り込んだ事に気を良くした風だった。

「本気で気に入った。サラリーマンなんて止めてウチへ来ないかい」

その誘いは、ルームミラー越しに聞かれた。

声は笑っているのに目だけがジットリとコチラを睨んでいる。

その目は答えを待っている。

うやむやな答えでは無く、イエスかノーをだ。

声を出す。

「オレは」

掠れてはいなかった。

負けるもんかと出来るだけ低音で答えた。

「家へ帰ります」

その答えに新藤は意地悪く笑う。

「いつでも帰ればいいさ。アンタの家だろう?ただ、今日もう少しだけ付き合って
くれりゃあ、いつ帰っても構わないさ。なに、用が済めばこのまま送ってやるよ」

そして、車が気持ちいい程滑らかに走り出した。

新藤は帰すと言いながらオレを何処かへ連れて行く。

いったいどこへ連れて行かれるのかと考えて、昨日の彼を思い出した。

社長と呼ばれていた彼だ。

西遠(サイオン)さん、だと取り巻きの連中から聞いた。

もし、これから西遠に会えるならそれでいいとも思えてくる。

だが、普通に考えて、会社のトップの人間がやすやすと対面出来るような人物では
無い事くらいわかる。

もし、会えるとしたらいったいどんな難題をオレは押し付けられるかもわからなかった。

きっと話は昨夜の事だろう。

無茶をした一般人へ高説を説くのか、それとも叱りつけるか。

ただ新藤のように気に入ったと言ってくれるとしたら、それならいつか暇な日にでも
飲み直すのが普通だろう。

これから向かう先が一向に見えなかった。

オレは大人になって、こんな風に振り回された事があっただろうか?

こんな、どんなに抵抗したって無駄な相手が居ただろうか。

太刀打ちが出来ない。

歯がゆい気持ちが余計に、オレの恐怖心を煽っていく。



休日の早朝、ヤクザな男とのドライブ。その数時間前まで深酒を味わっていた。

行く先もわからず、車は延々街中を走り続けている。

「ナカザワさん。吐くなら言ってくれ」

笑い声がして、新藤がタバコを吸い始める。

狭い室内は一吹きで煙の匂いでイッパイになった。

空気が悪くなると、頭も痛くなってくる。

ここまで一つも吐かなかった弱音が零れる。

「いったい、何処へ連れて行くんですか」

新藤はそれには答えず、逆にオレに聞いてきた。

「昨日のピストル男がどうなったか知りたくないか?」

「・・・・どうなったんです?」

さして考えもしないで聞いていた。

新藤は指でピストルの形を作りそれを、自分の頭へ向けて、振った。

それを、鈍痛を伴った頭でぼんやり見ていた。

それから静かな室内に、チッカチッカとウィンカーの音が鳴って、体が右に揺れる。

「本当に・・?」

「ああ」

昨日の場面が脳裏によぎる。どんな顔だったか思い出そうとした。

だが無理だった。覚えているのはあの音と西遠の顔だけだった。

アッケナイ。

人の命はアッケナイ。

だが、それだけでは済まない感情がオレの中で、うねる。

オレが気絶させた相手だ。両手を振り下ろし、西遠を助けたつもりだった。

だが、逆に言えば、あの男が殺されるきっかけになったんじゃないだろうか。

オレのせいでアイツは・・・?

真っ黒なモノが見える。

生きていた人間の立っているその足元から先が真っ黒に塗りつぶされていく。


思わず、顔を覆っていた。

「お手柄だ、ナカザワさん・・・アンタの度胸の良さに若い奴らは絶賛だ」

クククッと笑う声。

新藤の軽薄な笑い。

”死”の認識のあまりの違いに、眉を顰めた。

もしこれがこの男の策略だったとしたらオレは見事に乗せられていただろう。

もう普通の世界には帰れないような罪悪感にオレは苛まれていた。

犯罪に加担してしまった。

漠然とした事実に眩暈がした。

もし、その遺体が発見されれば、オレも事情聴取に出頭しなければいけないだろう。

それから、その男の家族は?

もし、オレが逮捕されるような事になったらオレの家族は・・?

考えれば考える程、自分のしてしまった行動に責任が取れなくなっていく。

「ナカザワさん、少し、待っててくれ」

急に車が脇へ寄せられ、新藤がマンションらしき建物の駐車場のロックを開けていた。


逃げたい。逃げ出したい。

ドアノブを掴み、新藤を見つめた。

新藤は画面に向かって何かを話している。中の住人とコンタクトを取っているようだった。

だが、ここで逃げても何も変わらない。

昨日はもう戻ってはこないのだ。そう気づく。

それに、今更逃げる必要があるのだろうか。

家には帰りたいが、新藤は用が終れば帰すと言っていた。

いくら気に入ったからと、男を連れまわす趣味じゃないだろう。

うまく生きてきたつもりで、何もかもが今は今更だと感じた。

西遠。

アイツと目が合って、それで・・・。

一瞬の陶酔。

あの目を思い出す。

あの静かな怒りに満ちているような眼差しを。

あの視線に、心が惹かれなかったか?

嫉妬のように。

憧れのように。



だが、それも全部お終いだ。

そんな気持ちを持ったせいで、こんな事になった。

誰もが目を逸らす事態へと飛び込み、顛末を知って自己嫌悪に陥って・・・。

疲れた。

疲れきっていた。


そこへ新藤が戻ってきて、車を駐車場へと入れた。

その日。

オレは家へ帰る事は出来なかった。












3、タオルを噛め

車が駐車場へ入ると、フッと視界の暗さが増した。

無機質なコンクリートに白い蛍光灯。

新藤はオレに何も言わずに車を降りた。

オレもそれにならう。ここに残っていたって仕方が無い。

逃げる事も抗うことも出来ないなら、従うしかないだろう。

再び、この男と二人きりでエレベーターへと乗り込んだ。

「わからん」

新藤が呟いた。

顔を向けると、ニヤリと口元を緩める。

「何を考えてる?不安は?この短時間でオレを信じたわけじゃないだろう?
本当に顔に出さない男だな。本当にトウシローか?今更、スパイだなんて言うなよ」

「スパイって・・」

顔に物事を出さない事は昔から言われていた。

オレにはこれが普通なんだ。褒められる事でもなんでもない。

「ここはどこなんです?新藤さんのお宅ですか?」

「入ればわかるさ」

エレベーターがランプのついた階に着く。新藤が顎でしゃくった。

それからフロアを一度右に曲がりその端の部屋の前に立つ。

表札は無い。

呼び鈴も鳴らさず、いきなり新藤はドアを開けた。

閉まりかけるドアに慌てて手を掛けて、中へ滑り込んだ。

「お邪魔しま」

と顔を上げると、同時、靴のままの体をムリヤリ部屋の中へと引きずり込まれた。

「なっ何する・・!?」

両脇を男二人に抱えられて、奥の部屋へと入りドサリッとうつ伏せに倒された。

部屋の真ん中に敷かれた布団の上だったが、もちろん押さえつけられたまま。

「いっ!!・・・新藤さん!!新藤さん!!」

「切れ」

今呼んだ男の声が言う。

体にビシリと緊張が走った。

心の準備も無い。もちろん刺される準備なんかそうそう出来るもんじゃないだろう。

体を強張らせ、押さえつけられて、どこも庇うことの出来ない体制でも、一瞬で体は、
筋肉を固まらせ、なんとか衝撃に耐えようとした。

そんなオレの心情とはお構いなしにザキンッと音がした。

唇が震えたが、あまりの驚きとショックで声が出ない。

その冷たい刃触りに意識が遠のく。

頭痛は今や、こめかみを殴られるような痛みに変わっていた。

またザキンッと音がした。

意識が一瞬遠のいた。

「綺麗なもんだ。どうやら、スパイ説は無くなったな。まあ今時の若いのは墨なんか
入れてるヤツも少ないだろうが」

新藤の可笑しそうな笑いが、オレの耳に聞こえた。

笑っている。

その事実にオレは怒りを覚えて目を開けた。

それから新藤を捜した。

「どこだ・・?」

押さえつけられる体をなんとか捩ろうとして、荒い息が出る。

「ここにいるよ。ナカザワさん」

「殺す気か・・?オレを・・!」

「そうだねえ。今考えてる」

新藤の今にも噴出しそうなのを我慢しているという楽しそうな声音に
頭がおかしくなりそうだった。

その時、諌めるような口調が聞こえた。

「新藤さん、やめましょうよ、可哀想に冗談がすぎますよ。たかが入墨に」


イレズミ!?


「先生、お願いしますよ」

「こんなのは初めてで・・」

「礼は2倍出しますよ先生」

「まったく、人が悪い。中澤さん、覚悟してください?」


カクゴ!?


男の声がして、背中に素手で触られて初めて、シャツを切られた事に気づいた。

それから、シュッと何かを吹きかけられた。

極度の緊張で、その冷たさが痛い程に感じる。

「ちょ!?待て!!ヤメロ!!」

オレの悲鳴も無視して会話は進む。

「新藤さん、絵柄は?」

「虎がいい」

そう言って、背中を指で差された。

ここ、というように右の肩を。

それからスルスルと右肩の上で線が踊った。

「や、やめてくれ・・!!新藤さん!」

両肩を強く押し付けられて、腰の上に誰かが跨っている。

たぶん、先生と呼ばれた男だろう。

「新藤さん!!なんでオレがイレズミなんか入れなきゃならないんだ!?」

新藤は一拍、間を置いて答える。

「社長は・・・殺しが嫌いだ」

新藤の顔が見たくて首を捻ると、背中の先生が文句を言った。

「中澤さん、動かないで下さい。下絵がブレると綺麗な線が出ない」

「ちょっと!アンタやめろ!!オレは入墨なんか入れねえ!!描くんじゃねえ!!
オレはただのサラリーマンだ!!」

「まぁ、聞きなさいよ。ナカザワさん」

新藤がオレの顔の横へ胡坐をかいて座る。

その間にも、背中にはスルスルと筆が走る。

「新藤さん!!やめさせてくれ!!こんな事おかしいだろう!?アンタどうかしてる!」

「まぁまぁ、よく思い出しなさいよ、ナカザワさん。昨日の男がどうなったか
教えたでしょ?」

両肩を押さえつけられて、胸が潰れる。

息が苦しくて、咳き込んだ。

「アンタは・・・殺すには惜しいし、社長は殺しが好きじゃないし。
アンタも大人だ。無謀にも首を突っ込んだ責任ってものを取るべきだろう?
まぁ、アンタは恩人でもあるしな。(金を)握らせてサヨナラするって手もあった
んだが・・・。アンタと一緒にいて感じたんだなぁ・・・。で、答えが出た訳だ。
アンタを身内にすればいいんだってな」

名案だと新藤が笑っている。

頭痛が酷くなった。

イカレテル。イカレタ男だ。

「それじゃ、いきますよ」

背中から声がした。

新藤が屈みこんで、オレにタオルを差し出してくる。

「口開けな」

「冗談じゃな・・・」

顔を背けると新藤が笑った。

「歯を食いしばると、歯がダメになるぜ」

「頭が・・・頭が痛い。薬をくれ・・」

「ダメだ。起き上がったらアンタ逃げちまうだろ」

目が霞んだ。新藤の顔がぼやける。

「この・・・ひとでなし・・」

呟いて、オレは意識を飛ばした。

それから次に目が覚めた時、舌を噛まないためにと、タオルを口に押し込められていた。

オレの右肩には血の滲んだ紺色の虎が口を開けていた。








4時間にも及ぶ施術の後、そのまま動けずに眠った。
そのまま、再び日は昇る。




















やっと会社へ行けたのは、火曜だった。

それでも、肩があがらない。

鈍い痛みで皮膚が引き攣る。

新藤がなぜ右肩にしたのか意味がわかった。

これじゃあ仕事にならないだろう。

無断欠勤を一日。その間に林と矢田からあの夜の事が噂になっているに違いない。

そして、この肩だ。まともに仕事が出来るかもわからない。

新藤は、このデカデカと描かれた虎が早く見つかればいいという考えだろう。

肘のすぐ上まで伸びた虎の爪。絶対に上着を脱ぐ事は出来ない。

とんだ不良社員の一丁上がりだ。

ラッシュの電車で肩が擦れる度に冷や汗が出た。

ただデスクに座っていても傷からくる熱で少し朦朧としていた。

そして、極めつけ。

始業15分後。

一本の電話が鳴る。

「中澤君、お兄さんから電話だ」

電話が鳴ったのは課長の机で、ナゼか課長はオレの回線に送らず、受話器をオレに
差し出す。

「は?」

オレに兄貴は居ない。いや、オレは一人っ子だ。恐る恐る受話器を受け取る。

「もしもし」

『よお、無事に着いたみたいだな』




新藤!!






その声に、思わず課長を見てしまった。

課長も胡乱な目でオレを見上げている。

課長が兄と言ったのは新藤がたぶん言った社名を皆の前で告げない苦肉の策だ。

新藤は包み隠さず、「西遠総合興行」の名前を出したんだろう。

知る人ぞ知る、やくざの会社だ。こんな顔をする課長が知らない筈は無いだろう。

ゴクリと喉が鳴って、小さくしゃがみこみたくなる気持ちを押さえ、出来るだけ
業務用の口調を用意する。

「先日はどうも・・・お世話に・・」

『先日?今朝だろ?オレが起こしてやったんだからな。コーヒーまで飲ませてやって』

豪快に笑う声が、絶対に課長にまで聞こえている・・・。

そう。オレは刺青から熱を出して、あのマンションにずっと居たのだ。

いや、軟禁されていたと言ってもいいかも知れない。

筋彫りが終るまでは、と新藤が毎日来て、他の若い奴はずっとオレにつきっきりで、
刺青を彫る時の助手を務めていた。

それがやっと終わり、今朝急に、何時の電車に乗る?と聞かれた。

そして、新藤が用意してくれたダークグレーのスーツやらネクタイやらを着て、
出勤したのだ。

切り裂いたYシャツの侘びだと、新藤は言ったがブランドのロゴを見て、オレは
余計にヒヤリとした。

刺青は、隠していれば生きていける。ファッションで体に傷を作る時代だ。

だが、こういう恩(?)は?金や、物の方がよっぽど困る。

オレはサラリーマンを止めるつもりは更々無い。

だが、この新藤の猛攻撃には足元が竦んだ。

『そうだ、終わりは何時だ?社長が今日店廻りをするんでな、招待してやるよ』

店・・・?キャバクラか何かか・・?

「いえ、結構です。仕事が溜まってるので、遠慮します。では」

早いとこ切り上げようとしたのがまずかった。受話器を戻そうとした瞬間。

『ちょっと待て、コラ』

新藤の声音が変わった。

この4日、一度として聞いた事の無かった。いわゆるドスの聞いた本職を想起させる
声だった。

しかも、かなりがなり立てた声で、受話器を離してしまったのを後悔した。

部所の職員が一斉に振り向いたのだ。

ゾゾッと、刺さる視線に悪寒が走る。

一度離した受話器を慌てて耳に当てると、向こうからクスクスと笑い声がした。

『なーんちゃって。びっくりしたか?』

オレは冷静にキレた。

「二度と掛けるな」

言った直後に指でフックを押す。受話器を置いて、課長を見た。

呆気に取られた顔に、礼を言って席に戻る。

チラチラと視線が痛かったが、拒絶オーラを出す事で凌いだ。

とんだ一日の始まりだった。


絶対、オレは会社をやめねえぞ・・・!!!


そう誓い。

根っからの仕事人間になるべくオレはパソコンへ向かったのだった。
























4、誘惑は、戸惑いも絶望も全てをかっさらう。

ヤクザという職業がどんなモノなのか、就職先に考えた事も無かったオレには
予想だに出来なかった。


慇懃に礼をすると若者がオレに言った。

「ナカザワさん、お疲れ様です!」

その後ろには、お約束の黒のベンツだ。


おい・・・。オレが今どんな目で見られてるかわかるか・・・お前。

お前みたいなイキってる兄ちゃんの友達なんかオレは一人も居ないんだぞ。

自分が二十歳くらいの時だってお前みたいのとは付き合いなんか無かったんだぞ。

それを、おい。なんだ、その後ろの車は・・・!

部下でも無いのに、「お疲れ様です」なんて言うんじゃねえ・・・!!


フツフツと怒りが込み上げる。

残業を3時間。空腹と疲れが極限まできているオレに、まだ更に試練を課せる気か・・!?


見なかった。

見なかった事にしよう。


オレは急いで足を進めた。

「ちょっま、待ってくださいよ!!ナカザワさん!!」

追って来た若造の手がオレの右肩にかかった。

「イッ・・!!」

思わず痛みに振り返り、その手を掴んだ。

「あ、スミマセンッけど、マジ車乗ってもらわないと、頭(カシラ)に怒られます」

ちっともスミマセンなんて顔じゃなかったが、いったいいつからあそこでオレを
待たされていたのか、その労力にこの対応ではムカつくのは当たり前だろう。

ただ、待つという事はオレが一番苦手とする事だ。

それを、いったいいつ来る相手かもわからず、ただ待たされる方はどんなに苦痛で
あるか。

それを思うと、ヤクザにならずに良かったと心底思う。

だが、同情こそすれ、従う気は無い。

「今朝、しっかりお断りした。新藤さんもわかっている筈だ」

ヤンキー小僧に負けるかと痛む肩を広げ背筋を張る。と。

「ないっす」

「・・・え?」

「いや、ないっすから」

「何が・・?」

「断るとか、ないっすから。そういうの」






暫し、オレは若造と路上で見詰め合った。


気が抜けた。

それくらい横暴だ。

そんなオレを不思議そうな顔で若造は見る。

「じゃ、行きましょう。ナカザワさん」

「あっ」

若造はオレのバッグをサッと持つと、車へと踵を返した。




人間ってなんだろう・・・・。




オレは、真っ黒のスモークガラスを見つめ、

宇宙の神秘とかそんな事を考えずにはいられなくなっていた。









さて、車が着いたのは、オレの会社から僅か車で5分の繁華街だった。


おぉーい、車の意味あったのか?


なんだかムカつくのを通り越して、半ばヤケクソに車を降りる。

鞄に財布が入っているが、そんなもん持って行く気にもならない。

どうせ、ヤクザの車だ、誰も狙うバカは居ないだろうし、そもそも、オレは金を
支払うつもりは毛頭なかった。


いったい何で楽しませてくれるっていうんだ!?


店の扉を開けるとそこは長く薄暗い廊下だった。

一つ角を折れる。すると、これまた厳つい感じの男が立っている。

一瞬人が居た事に驚いたが、若造がオレの後ろから「お疲れ様です」と声を
掛けると背にあるドアを開けてくれた。

黒く艶のあるフロアに薄暗い照明に照らし出される真紅のソファ。

ベロア調の布地が鮮やかだった。

コの字に広がる店内の何処へ行けばいいかと足を止めると、若造が先に歩き出した。

バーカウンターをグルッと廻り一番奥のテーブルに視線が行き、ドキッとする。

そこはさっきまで鮮やかだと思わせていた赤が一気に荒んで見える程重厚な黒い
革張りのソファだった。

その背に首をもたげ、ぐったりとまるで寝入っているかのように体を預けている男がいる。



西遠。



そのすぐ隣に女がいるが、どう見ても、艶負けしていた。

「ナカザワ」

呼ばれて少し西遠から視線をずらすと新藤が居た。

「新藤さん」

長身のこの男は長い足を大きく広げソファの背に凭れタバコを咥えていた。

「明日は、会社を休めよ?色を入れるからな」

笑って言う台詞に女達がまぁとかなんとかリアクションをする。

「明日は会議があるんです。勘弁して下さい。もうこれだけでも十分でしょう」

「・・・十分?」

新藤がタバコを指に持つと、スッとホステスが灰皿を持つ。

「これだけ入れられたら・・・誰が見たってヤクザだと思います。アンタの思惑
通りにね・・・」

新藤がニヤリとして、指で座れと差す。

オレが座ると、若造が深く一礼して、戻って行った。それに新藤は手を上げて、
ご苦労さんと声をかけて見送る。

西遠はやはり眠っているのか、オレが来ても微動だにしなかった。

ずっしりとケツが深く落ちるソファに仰け反る。と、肩にあの衝撃が来て、ウッと
眉を顰めた。

「痛いか・・・?まぁ、飲め。飲んでりゃ気にならなくなる」

「いや、結構です。オレは今日は帰りますから」

新藤が自分で、オレにグラスを作って酒を注ぐ。

「帰る・・・?そういや、何処に住んでるんだったっけな?」

「教えませんよ・・・」

顔を背けると新藤が笑う。

「ヤクザなめんなよ」

笑ってタバコをフカシタ。

「誰がヤクザだ・・・?」

西遠が呟き、目を開いた。

思わず、ソファから背を正した。

片手を広げて左右のこめかみを掴むようにマッサージしながら前屈みになる。

そして、視線をオレに留めた。

「ナカザワ チガキ・・・」

「そうです。社長の新しいボディガードですよ」

新藤がサイオンに水を差し出した。

「ハッ!?アンタ何言うんですか!?」

声を上げたオレに全員の目が集まる。

「・・・新藤」

「ハイ」

「すごいな。新藤を、アンタ、言ってるぞ」

頬杖をつきながらサイオンがオレを見ている。

新藤も両手を広げてソファに再び背もたれてオレを見ていた。

「いいでしょう?サラリーマンなんてさっさとやめちまえ、ナカザワ」

「なんだ、新藤・・。ボディガードは嘘か」

あからさまにがっかりするサイオンに、毒気を抜かれる。

「今スカウト中です。あと一歩ですよ。なんならアナタが落としてみて下さいよ。
オレもあの手この手で頑張ってますがね、イマイチなんですよ」

「落とす・・・?ナカザワをか?」

しっとりと重みのある声がオレの名前を呟く。

「落とすって・・・」

思わず、意味がわからないと笑うと、ジッとサイオンが見つめてくる。

まっすぐに切れ長の中の黒目がオレへ、ヒタと据えられ、オレは身動き出来なくなっていた。

すると、サイオンがスッと立ち上がり、オレの横へ斜めに座る。

間近に対面する体。

長い睫毛の一本一本までが見えた。

その目が動く。

にっこりと笑う男の顔にそこが何処か忘れる程見入っていた。

それから。

オレの肩へ、サイオンの体が押し付けられた。

「トラだって?」

「あ、ああ」

声が掠れた。

「楽しみだ」

笑うサイオンが、オレをソファへと押し付けた。

それから、サイオンがコロリとオレの膝へ寝転ぶ。

新藤の方へ顔を向けると、クスクスと笑った。

新藤も笑ったが、本当にやるとはね・・といった顔だった。

「ナカザワ。オレを守れ」

緩やかに微笑む膝上の男に、オレはなす術もなく、

「ハイ」

と、返事をしていた。


新藤は大爆笑。

ホステスが諌める程笑っていやがった・・・。





祝。依願退職。









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