5、帰還

まいった・・・。

マジでまいった。

オレはバカだった。

大バカだった。


たった一言。

オレは、西遠に”オレを、守れ”と言われて、間髪入れずにイエスと答えていたのだ。

これはいったいどういう事なのか。

オレは新藤の大笑いする姿を見て初めて、真っ青になったのだった。

なぜなら。

目の前にいる人間は、フツウの人間じゃない。

極道と呼ばれる、稀少な人種なのだ。

一般人とは相容れない、一本線を引いた人間達なのだ。

その線はたぶんに、屈折しているのだが、また気持ち良いほどに真っ直ぐなのだ。

そんな相手にオレは、なんて返事をしてしまったのか・・!!

ドッと襲う後悔に、今、忘れていた痛みがジンジンとしてくる。

オレの肩で大口を開けた、青い虎だ。獲物を捕らえるべく前足を突き出した爪。

それがオレの肘のすぐ上にある。

新藤が酔狂で、オレを押さえつけ、軟禁して描かせたモノだ。

そうオレは二度とスーパー銭湯にも、露天風呂にも入れない人種になってしまったのだ。

いや、露天風呂は貸しきれば入れるか・・・?

入れないので深刻なのはプールかも知れない・・・。

って、そんな問題じゃないんだよ、今は!


VIPかハイソな人種しか入れないような隠れ家的な高級クラブに無理矢理連れて
来られて、今、オレの前では新藤がニヤつき、オレの膝の上では。



西遠が眠そうな目で天井をボーッと見ている。


「言ったな。ナカザワ」

「いや、今のは・・・違うんだ!」

新藤はグラスを傾けて、挑戦的に笑う。

顔は、”もうこっちのもんだ”って顔でオレを睨む。

相手はヤクザだ。

男の道を行く男だ。半端や無知や弱い事を許さない男だ。

ゾッとしながら、オレは言い訳を考える。


そんな世界でオレは立派になんてやっていきたく無い!!


「なにが、違うって?」

ギラリと新藤の目が光った。

何を言っても、許さないという顔だった。

ここでオレがこれ以上何かを言えば、新藤の拳が飛んでくる・・・。

緊張する雰囲気に店のホステス達も一瞬シンと静まった。

「あ、中澤さん、何か召し上がりますか?ご飯まだなんじゃ・・・」

慌てて口を開いたのは、さっきまで西遠の隣に寄り添っていた女の人だった。

「リサ」

新藤が、緊張を崩させないように女の名前を呼んだ。

リサは上げかけた腰を下ろし、気まずい顔で廻りを見る。

他の女達も同様に、目配せしている。

オレは黙ったまま新藤と目を合わせた。

新藤の目が鋭く細められる。

強い眼力に我を挫かれそうだった。

その緊張が不思議に店の中へ広がり、一瞬、店内から人の声が聞こえなくなった。

ただ流れるのは感じのいい静かなバイオリンの音だけだった。

「新藤」

その怒気を諌める声。

西遠。

オレの膝を枕にしたこの男は、眠そうな目を新藤に向ける。

すると新藤も眉間を広げ静かな顔に戻った。

「眠い。帰るぞ」

「ハイ、わかりました。今車を廻させます」

新藤が携帯を開いた。

西遠はムクリとオレの膝の上から起き上がる。

オレに背を向ける格好のままで、こう呟いた。

「ちょっと。本気にした」

それからスックと立ち上がり、上着の襟を正す。

再びオレに向き直ると、握手を求められた。

オレは座ったままで慌てて手を出す。

「また、会える事があればいいですね。今日はありがとう。」

さっきまで、オレの膝に寝転んで寛いでいた本人とは思えない程、
冷たい顔の西遠がそこにいた。

愕然として、彼等が居なくなった後も数分ジッとしていた。

バカだと思う。

なぜ、こんな気持ちになるのか。


サイオンに、見限られた・・・・・!!そう思わずにはいられなかった。


「あなた、大丈夫?」

心配そうに声を掛けてくれたのは、リサだった。

「あ、ああ、・・・平気です」

なんとか立ち上がり、引き止められるのも構わず、店を出た。

肌寒い夜風。

もちろん連れて来られる時の若造も、その車も無かった。

その呆気なさに、自分がとんでもない失敗をしたような感覚になる。


オレは晴れて釈放の身になったってのに、この喪失感のような感情を感じてる。

なんなんだ?がっかりしている?

サイオンにがっかりされて、オレまでがっかりしてしまっている。

でもそういつまでも歩道に立ち尽くしてもいられない。

好奇の目で人がただ立ち尽くしているオレを見て行く。

とりあえず、歩き出した。

車が横を通る度に、黒の外車と見間違えた。


心の中で呟いた。



これで、いいんだ。





オレは強く一歩を踏み出した。

オレはフツウの生活へと戻る。

このおかしな数日がやっと終ったのだと言い聞かせた。

俯いた時に下がった眼鏡を押し上げようと上げた肩が痛む。

右肩の虎。


残ったのはオマエだけか・・・。


と、肩を触ってみて、ハタと気づいた。

「かばん・・・!!」

慌てて振り向いて、あの店の前へ走る。だが、さっきも見た通り、車は無い。

サーーーーーーッッと血の気が下がる。

明日の会議で使う書類がまだ書き途中だったのだ。

フロッピーに保存したソレの続きをやるつもりだった。

中身は健康食品の新商品開発についてのものだった。もちろん社外不出、守秘モノだ。

「ハハハ・・・」

途端に脱力した。

おかしくておかしくて仕方がなくなってくる。

車に戻った新藤がオレの鞄に気づいてない筈はない。

「あ〜あ」

歩道の手摺に寄り掛かり、胸からタバコを取り出す。

ライターで火をつけて、深く吸い込む。

ゆっくりと煙を吐き出しながら、また笑えてくる。

「母さんになんて言うか・・・」

タバコのせいか、それとも、サイオンを裏切らずにすむせいか。

すっきりとしていた。

半分まで吸ったソレを惜しいとも思わず水溜りへと投げた。

「行くか」

オレは自ら、西遠総合興行の事務所へと向かったのだった。


もう二度と行くまいと思った場所へ、オレは、帰ろうとしていた。















6、新生活

「財布返してくれ」

明けた次の日の朝。

やっと新藤が西遠総合興行のビルの何処かからかやってきた。

オレは結局、一晩また、たらふくビールを飲まされ、あのソファへと寝るハメに陥っていた。

ただ今回は、自分で目覚められず新藤の笑い声で起こされた。

昨日の夜中に着いたオレをこの男は知らんふりで迎え。

例のごとく例の部屋へと通され一晩放置されたわけだ。

「会社に遅れるぞ」

手渡されたのは、青と銀糸が細く入った黒っぽいスーツ。

ネクタイが入っていると思われるブランドの箱等々。

と、オレの鞄。

今まで着ていたスーツが本当にリクルートモノにしか見えなくなってくる。

渡され、返って来た鞄の中のフロッピーも諸々の書類も変わった様子はなかった。

西遠からプレゼントだというソレらを両手に抱え、オレは長身の新藤を睨み上げる。

「・・・財布は?」

「財布?何の事だ?」

ニンマリと笑い、新藤は木目のデスクの引き出しの一つを開ける。

そこから封筒を取り出し、オレへ向けた。

ぶっきらぼうに、オレは塞がってる両手の荷物を抱えて、やっとで指で摘むように
ソレを受け取る。

「50(万)入ってる。買い物をしたら領収書を切れ。いいな?」

 
50・・・・万?


「メシを食う時間はあるか?あるなら上へ行くぞ」

「上?」

「社長室」

その台詞に、昨日の夜の西遠の顔が浮かび上がる。

「ここで着替えるか?上で着替えるか?」

「こ、ここで着替える!」

慌ててオレは着っぱなしでクタクタになったスーツを脱いだ。

新藤がデスクに寄りかかり、オレを見て笑う。

「本当に、落ちたのか?」

「落ちた?何が?」

ワイシャツも下着も脱いで振り返ると、新藤が腕を組んでオレを見ていた。

「彼にさ」

少し視線を落とした新藤の目が、再びオレを見つめてくる。

いや、オレじゃない。オレの肩に住む青い虎を、だ。

「男の肌ってのは」

新藤が近づいてくる。

「なんて入れ墨が似合うんだろうな」

それからバリバリと真新しいYシャツの袋を破くとそれをオレの肩へと掛けた。

「早く、着ろ。社長がお待ちだ」

少し緊張した。

男に見つめられて着替えるのがこんなに心地悪いものだったのかと、初めて気づいた。

いや、新藤の視線がこんなに痛いものだと、改めて気づいたんだった。

素早くボタンを留め、形の良いスーツの袖に腕を通してオレは新藤の後をついて行った。

西遠のいる部屋へ。




「ナカザワ」

ドアを開けると、西遠は黒皮の独り掛けソファの肘掛けへ座りカップを啜っていた。

切れ長の目を細め、黒目いっぱいに笑った顔をオレに惜しみなく向けてくる。

その顔は昨日の冷たく冴えた顔とは全く違って、オレの存在を受け入れてくれている
ように感じさせた。

「似合うよ」

その一言に足が止まる。この部屋へ入る直前の緊張で忘れていたが、自分が着ている
スーツは、西遠からのプレゼントだと新藤が言っていたのだ。

オレの動揺も知らん顔で新藤が朝食を乗せたプレートを運んでくる。

礼を言おうかと口を開いた途端、西遠が言った。

「これ、オレが書いておいてあげたから。」

今度は新藤の渡してきた封筒とは違い、薄っぺらい封筒を差し出される。

「退職届。」

オレは眼鏡の内の目を見開いてしまった。

西遠のイタズラな笑みがカップの影に消える。

すると、先にソファへ座りコーヒーを注ぐ新藤が吹き出した。

「社長。あなたにそんな物を書く能力があったとは初めて知りましたよ」

「無いよ?」

笑って西遠が新藤に啜っていたカップを渡した。

「ナカザワ。中身を確かめる事を勧める。この人は事務仕事とは無縁の人だ。
そのまま、上司に出せば、まぁ退職するには手っ取り早いだろうがな」

「ひっでえなぁ」

西遠はストンとソファへ座って、ケタケタと笑い出した。

そして妙な緊張感に襲われたオレは、こわごわと封筒の中身を取り出した。

真っ白な便せんの真ん中に、『今日で辞めます。お疲れさまでした』の一行。


・・・・・・・・・・・・。



「なんて書いてある?」

新藤が振り向いて面白そうに聞いて来た。

「ちゃんと出しなね?」

西遠がにっこり笑う。

オレは、ハイ、と返事をして封筒を胸にしまった。

「本当に出すなよ?ソレ」

新藤が今度は前を向いたまま言う。

それに、もちろん・・・と心の中で呟いて、新藤の向かい側へと座った。

「えー?新藤って本当意地悪いよなぁ」

頬杖をつく西遠が拗ねた声を出した。

「あなたのサポートがどれだけ大変か熟知してますからね。ナカザワ、苦労するぞ」

新藤がフォークで、オレに食え、と振る。

「おもしろそうだなぁ・・・付いてっていい?」

西遠が楽しそうにパンを千切り、口へ運び、妖艶な目をオレに向けて笑う。

「社長。そんな我が侭を言うと、ナカザワに心変わりされますよ?」

新藤に見られているのも居心地の悪いものだったが、この人にずっと見られている事
こそ、居場所が無い。

なんとか手と口を動かして朝食を食べる。

何を食っているのか全く味がわからないメシだった。

だから。この二人が何を話していたのかってのもマルきり頭には入っちゃいなかった。





「は?」

「ん?」

例のごとく、真っ黒のベンツに乗り込むと、グラサンにニヤけた西遠が運転席にいた。

「な・・・何してんです・・・か?」

「暇つぶし」

西遠がアクセルを一度噴かして、車を急発進させた。

西遠の姿に驚いて、背中をつけていなかったオレは車中でガン!と後頭部を打って、無様に頭を
抱えた。

「あ、あなた・・・仕事いいんですか!?」

西遠は前を見たまま笑う。

「仕事なんか無い。全部新藤がやってる。オレは占い師かなんかみたいなモン。最後に
いいか悪いか言うだけ〜」

陽気に言う男を凝視して、唾を飲み込んだ。


暇つぶしに自分の仕事を新藤に押し付けて、オレに付いて来る・・・。

この男は・・・すごい我が侭なんじゃないだろうか・・・?


「・・・・新藤に怒られませんか?」

思わず出た台詞に西遠がブッと吹き出した。

「ナ、ナカザワ〜〜、お前、どこでそんな台詞覚えて来たのサ〜〜」

赤信号で西遠はオレを振り返ってサングラスを上げて言った。

「あの会社の奴ら、皆してそう言うんだよ。『新藤さんに怒られます』」

ナカザワも聞いたの?って言われてオレは首を振った。

すると、西遠の口元から笑みが消えた。

それから、また黙って車を運転する。

妙な沈黙だった。

オレの発言が生意気だったせいだろうか?西遠は一言も会社へ着くまで話さなかった。

まぁ、予想通りに、西遠は会社の真ん前へとベンツを横付けし、オレに降りろと示す。

「ありがとうございました」

一礼して車から出ると、西遠の声が追ってきた。

「オマエさ」

歩道の真ん中でオレは振り返る。

車の屋根に頬杖をつくように西遠がサングラスの中からオレを見てた。

「オレを飼ってみたくない?」



その瞬間、有り得ないメニューが頭の中に開く。

29年生きてきたオレの道徳に無い項目が一つ増える。


にっこりと笑って手を振る男、西遠。

見つめると。



あの夜の事を思い出す。

この男が自分の膝の上に頭を乗せオレを見上げる。

その頭をオレはヨシヨシと撫で回す。

クセのついた黒髪に指を通す。

瞼を落とした西遠の顔。

その目がゆっくり開き、目が合う。

切れ長の黒目が細く歪み、口元が引きあがる。



思わず顔に血が上り、オレは慌てて会社へと体を向けた。


らしくも無い。オレは幾つの男だ?

なぜ男相手にこんな焦るのだろう?

胸が慌しく騒ぎ出す。

歩くのもなんだかギコチナイ動きになって、エレベーターにやっとで
乗り込んだ。

閉じていく扉の間から、西遠の車が見える。

ボックスの中の壁に寄り掛かりながら、深呼吸をした。


コレカラオレハカイシャヲヤメル


サイオンノトナリニタツタメニ


それが、いい事か悪い事か、イッパシの社会人をしていたオレには
わかっているツモリだ。

なのになぜ、オレは彼等の言うなりになろうとしているのだろう。

脅しつけられた訳では無い。

何かを守る為でもない。

ただ。

彼に応えるため。


エレベーターの表示が一つずつ変わる。

スーツの襟を正し、髪を梳く。

何かが変わってしまったのだ。

そうだ。

この肩に虎が住むように、オレの内にも何かが棲み初めているのだろう。

何かが。

左の内ポケットには、西遠のフザケタ退職願が入っている。

フと笑いが込み上げた。

その瞬間、エレベーターの扉が開き見知った顔が立っていた。

「おはようございます」

「おはようございます」

入れ違いエレベーターを降りた。

いつもの朝の風景。いつもの朝の挨拶だった。


オレは真っ直ぐに歩いていく。

スタートは切ったのだ。




7、やくざのお仕事

毎日、軟膏を塗り込めオレの虎を新藤が撫でる。

「新藤さん・・・タバコ、落とさないで下さいよ・・」

火の熱さに眉を顰めると、熱いか?と新藤が一際肌に近い場所でタバコの火を赤々と燃えさせる。

「新藤さん・・・!」

近づけられた火に振り向くと、冗談だと笑う男がタバコを灰皿へ入れる。

「いい色になってきたな・・・腫れも大分ひいてる」

シャツを肩に掛けられ、作業の終了を知らされる。

新藤が選んだだろう濃紺のワイシャツに袖を通し、オレの一日は始まる。

オレ、ナカザワチガキは健康食品会社を依願退職し、その日の夕方には送別会の予定も立たない
内に、新藤が迎えに来た車へと乗っていた。

サヨナラ。

誰ももうオレに話しかけやしないだろう。

オレが選んだ道は、彼らとは相容れないだろう。

少し寂しくなった。もう二度と一緒に酒を飲む事もないのだと。

なんの運命なのだろう?

オレがここにいるのは、いったいいつから決まっていた事だったんだろう?


「さて、今日は出張だ。北海道に建てたばかりのリゾートホテルの見学に行くぞ」

「リゾートホテル?そんな不動産を?」

新藤がニヤリと笑う。

「実はスキー場だの新しく海外からのスポンサーがついてな。今、リゾート施設がボンボンと
建設されてる。その近く、まんまと山の中腹にな。全く計画には参加していないが、向こうから
客が沸いて出て来る。全くいい質代だった」

言いながら新藤が電話をオープンにして西遠を呼んだ。

「社長、支度は出来ていますか?今日は頭の硬い連中と会いますからね。派手なスーツは
やめてください。赤いシャツもです」

からかうような事を真面目に言う新藤に呆れて、サッサと部屋を出ようとすると新藤がオレを
呼ぶ。

ドアノブを手に振り向くと、新藤が慌てて受話器を取ってボタンを押している。

「ナカザワ!社長を起こして来い!オレは飛行機のチケットを取り直さなけりゃならん!」

新藤の舌打ちに、オレも真っ青になった。

「まだ起きてなかったのか!!」

時計は8時半を回っている。

オレは走って西遠のいる5階へと上がった。

社長室の奥の応接間の奥のドアを開ける。

「社長!」

入った正面、真ん中へ置かれているベッドに、張りのある背中が見えた。

枕を片手で抱え、うつ伏せになった背中に彫りの深い筋が入っている。

いや、それよりも。

赤い。

黒淵の赤い鳥が両翼を広げ、左肩へと頭をもたげている。

「社長・・・」

急いで叩き起こさなければいけないところなのに、その背中に見惚れて動けなくなっていた。

ゆっくりベッドに近づいて、その背中に手を伸ばした。

触れる寸前に、ナカザワ?と聞かれる。

ハッと手を引っ込めると、西遠が顔を上げた。

しなるような体を波立たせ、まるで猫の背伸びのようにベッドから起き上がる。

「あ〜・・・寝坊?オレ」

起き上がり、ベッドから両足が降ろされる。

思わず、目を逸らしてしまった。

西遠は真っ裸でベッドに寝ていたのだ。

堂々と西遠はオレの横を通り過ぎ、クロークへと向かう。

男らしく上がった尻、腿の付け根、尻の外側の部分が凹んでいる。

クロークからすぐ西遠がシャツを羽織って出て来た。

下も履いていたがベルトがダラリとぶら下がった状態だ。

「社長!そのシャツ!」

新藤の台詞を思い出し、西遠がボタンを留めようとするシャツを慌てて止めた。

「赤はダメだって新藤さんが言ってました」

「・・・・・・」

西遠の目が、ウルサイとオレを見る。

ウッとなるのを堪え、オレは失礼します、と声を掛けてクロークへ入り薄いストライプの
ワイシャツを取り出し、合いそうな冴えた水色のネクタイを手に西遠の元へと戻った。

西遠は脱いだシャツを放り投げ、ソファに上半身裸のまま両手を広げて待っていた。


な・・・なんて格好だ・・・この人は・・!

本当になんて朝の似合わない男だろう・・・。


眼鏡のブリッジを押上げ気を取り直して、近づく。

「社長。早く着てください。今、新藤さんがチケットを取り直してますから」

全く、この男に近づくのだけでも相当な勇気がいるっていうのに・・・・。

西遠はやる気の無い顔をオレにチラと向けて、右手を差し出して来る。

それもそっぽをむいて。

・・・・着せろってか・・・・。

この男は・・・本当に・・・もう・・・っっ

急いでワイシャツを広げ、ボタンを外し右の袖を西遠の手に通す。

それから西遠の前へまわり、シャツを右から左へと羽織わせ、左の腕もそこへ通させる。

「ちょ・・・ちょっとは、動いて下さいよ・・・!」

大の男にシャツを着せる作業がこれ程、恥ずかしい事とは思いもしなかった!

西遠はフフッと笑い、や〜だと鳴く。

まったくなんて男なんだ・・・。

これがあの夜の、屈強な男達に頭を垂れさせていた威厳を持った男には到底見えない。

「なに・・・赤くなってんの?」

面白そうに笑う西遠を無視して、シャツのボタンを嵌めていく。

それからテーブルに置いてあったネクタイを取り。

一拍置いて、西遠の首へとそれをまわす。

硬い襟の中へ丁寧にネクタイを潜らせる。

至近距離で西遠がオレを見つめていた。

頭の中ではネクタイの結び方だけをイメージし、西遠の視線のプレッシャーから逃れる。

シュッとネクタイの衣擦れの音で西遠の首が締まる。

「出来ました」

西遠の前から膝を立てようとした。

その肩、オレの左の肩に。

西遠の右足、膝の裏が乗せられる。

「・・・な、なんです」

一瞬、唖然としたが、冷静に聞き返す事はなんとか出来た。

「もう終わり?」

つまらないって顔で西遠がオレを見る。

その言葉にオレはただ黙ってしまった。いや放心していた。

「何やってんですか、あなたは・・・」

重みのある新藤の声に西遠の足の存在も忘れて慌てて立ち上がってしまった。

それを見た新藤が、プッと吹き出してオレの肩を叩いた。

「ナ、ナカザワ・・・!お前は何にも悪く無い。安心しろ」

可笑しくて可笑しくて仕方無いと口を押さえる新藤に、こっちが血が上った。


なんなんだ・・・。悪くないって・・・・。

まるで、エッチなシーンでも見られたみたいなこの感じは・・・・!


「に、荷物取って来ます」

早口に言ってオレは西遠の寝室から飛び出した。


「そんなに気に入りましたか?」

「ん?なに?」

「いえ」








真冬前の北海道、とはいえ山の上は白く粉がかかっていた。

その山を見上げる中腹に。

まさにゲレンデとなるであろうマッサラな敷地のど真ん中にその建物は建っていた。

4階建ての横に長いリゾートホテル。その真ん中が少しだけ折れている。

フロントの入り口には悪趣味な程に長いロールス。雪山にはどう見ても不釣り合いなブツだ。

「これにだけは乗りたくないな」

バカにした笑いで新藤がロールスを指差した。転落間違い無しだ、と。

「カーセックス専用だろう」

西遠まで笑う。

その西遠は、とても人に着せてもらったシャツとネクタイとは思えないような堂々とした
態度で、ロビーを歩く。

そのロビーの左には広々としたラウンジ。

そこで待ち構えていた数人の男と西遠は握手をして、さも自分が遅れて来た事実など無いような
顔で席に座る。

もちろん 新藤も西遠の隣へと席についた。

さて、そこで席はいっぱいになってしまった。オレは話を聞いているべきか、離れるべきかを
考える。

後ろの席に座っているか・・・。そう考えて後ろを振り向いて、顔を前へ戻すと「では」と
西遠が言った。

西遠は新藤の肩を叩くと、新藤は、はいはいといった感じで手を軽く振り、オレを顎でしゃくった。

「え」

立ち止まっているオレの横を歩いて行く西遠が「行くよ」と言った。

慌ててオレもその後を付いて行く。

それからエレベーターへ乗り込んで、上着のボタンを外す西遠を振り返る。

「何階へ?」

「一番上。オレの部屋」

少し後ろへ寄りかかって足を組む西遠。

「もう・・・話は終わりでいいんですか?」

「あ〜。いつもあんなもんよ?オレの出番なんて。言ったろ?オレは占い師みたいなもんだって。
相手を見て、信用出来そうか、そうでないか新藤に言うだけだ。それで、新藤は組む相手を決める」

雲を掴むような仕事の仕方に聞こえた。

まじまじと西遠を見つめてしまう。

この堂々とした態度。少々、口調がガキっぽいが、とても仕事の出来ない男には見えない。

なのに、新藤は西遠をひたすらに象徴のように奉っているように感じる。

いや、それとも・・・。逆だろうか?

出来るだけ、この男を人に会わせないために・・・新藤が仕事をしているんではないだろうか?

このやたらとフェロモンをまき散らしている男に、虫がたかってこないように・・・。

西遠を目当てに近づく人間を牽制するために・・・。

だとしたら、自分はなんだろう?

人をせよつけたく無いなら・・・オレが選ばれ西遠の側にいる理由はなんだろう?

西遠がスっと立つ。

その直後にエレベーターは、少しだけ浮遊感を残し静止した。

「さて・・・風呂でも入るか」

「風呂ですか」

西遠の後ろに付きながら、新藤に指示を仰ぐべきか悩む。

本当にあれでこの人の仕事は終わりなんだろうか・・・。

サボってるだけなんじゃないのか・・・?

もしこの後にも、人に会う仕事が残っているとして・・・西遠が風呂に入ってしまったら、
またその相手を待たせる事になる・・・。

カードキーで部屋のドアを開けた西遠が服を脱ぎながら歩いて行く。

「ちょ、ちょっと脱がないで下さい!」

え?と振り返る西遠。

「何?恥ずかしいのか?」

「違いますよ!風呂は新藤さんに聞いてからにして下さい。オレはこの後のスケジュールはよく
わかってないんです。本当に寛いでいいのか聞いてから・・・ちょっと!」

話してる間にも西遠はネクタイを外し放り投げる。

それから、オレの目の前、半歩も空かない距離に詰めると鼻先で笑い。

「オレがいいって言ったら、いいの」

と、オレの眼鏡をコンッと叩いた。

「・・・・・・・」

そこでオレは思う。

たったアレだけのために呼ばれる西遠も大変な仕事だと言えるだろう。

しかし。

この先はオレにもしっかりと彼のスケジュールを管理する側に居させて欲しいものだ。

でなければ・・・こうして、いいのか悪いのかもわからず、彼に振り回されるハメになる・・。

惜しげも無く素っ裸になる西遠の後ろ姿を見るのは今日二度目だ。しかも数時間も立っちゃいない。

その彼が、風呂の扉を開きながら、振り返った。

「早く脱いで、背中流せ」



パタンとしまる扉。

ヤクザの仕事についてわかった事がある。

・・・分別がない。

という事だ。

そうだ。これはまさに、パシリと言われる仕事では無いだろうか・・・。

西遠がAと言えばA。Xと言えばXなのだ。

しばし、天井を見つめる。

と。

「なーかーざーわー」

「・・・・・」

「なーかーざーわー、ちーがーきー!」

片手で額を覆い、顔を撫で、もう一度呼ばれる前にオレは上着を半ばヤケクソに脱ぎ捨てた。

「はいはいはい。・・・・今、行きますよ!」

ハイの部分だけは小声で応えて。






8、平成事変

「へー、ただのサラリーマンには見えないじゃん」

床レベルの湯舟につかりながら、西遠がオレを見上げてくる。

隠すのも変な気がして、タオルを手に風呂場へと入った。ここは、プライドの叩き売りだ。

堪えろ!オレ!

隠したい気持ちをポーカーフェイスで乗り切り、西遠のニヤケ顔もパスする。

サッサとシャワーを浴び、西遠と同じ目線になれれば、とりあえず人心地だ。

なのに。

「あ〜、あっちぃ」

西遠の方がオレの方へと上がって来てしまう!

真横に立たれると、奮い立たせた自尊心も削げる。

バネのように筋肉が体に張り付いた体だ。

自分の体を見るのもイヤになる。

その肩に西遠の手が乗った。

顔を向けると、肘を取られ軽く持ち上げられた。

そして、西遠が自分の肘も持ち上げ、突き合わせる。

と、そこには、青い虎の爪と赤い鳥のクチバシがお互いを威嚇し合う格好になっていた。

濡れた髪の西遠が長いまつげを瞬かせ笑う。

「オモシレっ」

気がつけば、オレは口の中に唾がたまっていた。

呆然と、二つの入れ墨に見入っていた。

体に描かれた絵が水に濡れ鮮やかに浮き上がる。

奇麗だと、素直に感じた。

「きれいだな」

西遠が言った。

オレは西遠を見た。それでも、背中を流しますとしか言えなかった。

オレもきれいだと思った、なんて、言えなかった。言いたかったけれど、言えなかった。

同じモノを持っている。そう思えて、そう思うだけでなにか満足していた。

自分がここに来た事は間違いじゃないと、その時やっと感じられた。

迷いながら、流されながら、この男の側に立った。

運命を信じられる程子供では無い。

確たる理由が必要なのが大人だ。

この出会いはいったいなんなのか。

オレの意味は?あなたの側にいる意味は?

その一つがこの入れ墨だと、西遠の入れ墨が言う。

馬鹿げているかも知れない。

けれど、なにかそれは、血とかそんなモノに似ていた。

家族とか身内とか、そんな感覚を生み出していた。

「この鳥は、なんですか?」

左肩に赤い鳥。その背中の泡を流しながら、西遠に聞いてみた。

「不死鳥。死ぬなって意味」

鏡の中の西遠へ視線を向ける。

視線は交わり西遠は微笑む。

それは妙な命令だと思った。

人間は、そうそう死なない。生きていれば死ぬ事はない。

それは命令される事では無い。生きる事も死ぬ事も自分が決める事でも誰かが決める事でもない。

”死ぬな”そう命令されなければ、西遠は、生きていけなかったという事だろうか?

「オレも洗ってやろっか?」

ギクッ。

「いえ、オレは朝シャワーを浴びましたので」

慌ててオレは自分の体についた泡も流して、ジェットバスの中へと足を突っ込んだ。

その展開だけは避けたい。いや、避けなければいけない!

このフェロモン男に撫で摩られたら、オレの体に異変が生じるかも知れない!

それこそ、男を飼うなんて非道徳なコンテンツが増えるどころの話ではないのだ。

男相手に欲情するなんて項目は絶対にあってはならない!このオレの29年の人生に誓って!

とにかく、肩までずっぽりと湯につかり大きく息を吐く。

「このヤロ。何逃げてんだよ」

西遠の両足がオレの肩に乗った。

という事は・・・。オレの頭の後ろに・・・。

振り向きかけた頭を急いで前へ戻した。

なのに西遠の腕がオレの髪を掴んで後ろへ引っ張る。

「いたっ!ちょ」

真上から覗きこまれ、オレは絶句した。

西遠の髪の先端から雫がポタリと落ちて来て、一度目をつぶった。

「ナカザワ。お前さぁ、手強いよ・・・?フツウさ、オレの裸なんか見たらイッキよ?」


イッキって・・・。イッキってどうゆう意味だろう・・・。

そう思っていると、西遠の顔が迫って、そして。

唇に触れた感触。

そして、西遠の両腕に抱きしめられる頭。

その頭の中は巨大な空洞を化していて、その中で西遠の声がワンワンと響いた。

「ナカザワを気に入ったのは・・・オレだよ。新藤じゃない。オレがアンタを欲しがったんだ」

それからまた言う。

「オレを飼ってよ。ナカザワに命令されたい」


もし。

これが、西遠の本気の告白でなく、西遠がオレを勃起させるために打った芝居だったとしたら、
素晴らしい演出だとしか言いようがない。

無言のままオレは、自分の体に起きた異変に脅威し、ただただ、どうやってこの湯船から
出られるかだけを考えていたのだった。









9、イリオモテヤマネコ

西遠とうい男が全くわからない。

誰の目にもその姿は優雅でいて気迫があり人の目を惹き付ける、類い稀れなモノだ。

もちろん、それは見た目だけではない。実質、ヤクザが経営する会社のトップなのだ。

人の上に立つ人間の威圧感、実力も備えた体には極道特有の墨が入っている。

そんな男が、どうしてオレのようにフツウのサラリーマンだった男を取っ捕まえ、その上、
極上の笑顔を向けて、”命令してくれ”などと言うのだろうか?

見たところ、アブノーマルな趣味を持っているようには丸きり見えない。

まぁ、そう確信したのは、あの告白の後、西遠がほんのりと頬を染めてオレから離れて行く
姿を見たからなのだが。

内心は、ドキドキだった。

顔に精神状態が出ない人間で、心底良かったと思う。

バカみたいに動揺していたんでは、やはり見込み違いだったと言われかねない。

イヤ、そんな問題ではない。

オレはこれからどうしたらいいのか?

男を飼う?

命令する?

いったいそんな事、どこで勉強すればいいんだ?

「まったく、いいご身分ですね。オレがチクチク企業家とやり合ってる間にジャグジーですか」

バスルームを出ると、備え付けのバーカウンターで、新藤がコーヒーを煎れていた。

「好きでやってるのはお前だろう」

いつもの西遠の薄ら笑い。それに、新藤がええそうです、と笑い返す。


あの直後に、新藤が物音を立ててくれなかったら、オレは半永久的にジャグジーから
出られなかっただろう。

一気に萎えた性器にホッとしたオレは、新藤さんかな?なんてマヌケな台詞を吐いて
立ち上がったのだった。

「さて、夕食でも少し愛想を振りまいて下さい。あなたにいい顔をされたい輩がまったく
多い。どうもあなたと会った事が自慢になるらしい」

バスローブ姿の西遠がカウンターの椅子に座り、足を組む。

それから。

「ナカザワ。服」

オレの方を見ずに、西遠が命令する。

命令して欲しいと言った男は、これがまた酷く命令するのが似合う人間なのだ。

「はい」

いったい何度この男の命令にこう応えただろう。

始めからだ。何も逆らえないと感じた。

オレが立ち上がると、新藤がクローゼットを指差した。

クローゼットを開けると、ズラッとスーツが掛けられていた。

全て新藤が用意したものなのだろうか?こんな風にどこへ行っても西遠には専用の部屋が
用意されているのかも知れない。

そう考えて、新藤がどんな優秀な秘書かと思えてくる。

これだけの仕事をこなせる男はそうそう企業にもいないだろう。

人間一人を丸ごとひっくるめて面倒を見れる、そんな人間だ。

管理という言葉が一瞬浮かんだが、そんなハカリではなかった。

真似しろと言われて出来る仕事では無い、と感じた。

そして、オレもまた、真似しろと言われて真似出来る仕事ではないような仕事を
させられる。

「社長・・・」

黙って出される右腕。

それにオレは今朝のおさらいとばかりに、ワイシャツを広げ袖を伸ばす。

その袖に西遠の手を掴んで、通す。

触れた指。尖った形の良い広い爪。

西遠のワイシャツに手首のボタンは無い。

カフスをその穴へ付ける。右手が終われば左手も。

その作業を、西遠が少しだけ傾げた頭で見つめている。

「似合いますよ」

素直に口から出た台詞に、西遠が目を丸くした。

しまったと思っても、オレの顔にはそうでない。

そして、西遠が緩やかに微笑んだ。

「ありがとう」

と。




濡れた西遠のバスローブを脱衣所へ持って行く。クリーニング用のカゴへぶち込むと、背後に
新藤が立っていた。

新藤は鏡を少し見てから、うがいを始めた。

「そうだ、新藤さん。オレにも社長のスケジュールを教えてもらえませんか?」

「スケジュール?どうして?もっと仕事したいのか?」

「仕事はあればします。でも、先のスケジュールが分からないと、今日みたいに社長が風呂に
入ると言われても、いいのか悪いのかわからない」

すると、新藤の口から西遠と同じ答えが返ってくる。

「社長がいいと言ったら、いいさ」

「・・・でも、それじゃ、もし、社長がスケジュールを忘れていたら・・その後の仕事に」

「ナカザワ」

新藤がタオルで口を拭いて向き直る。

「お前がどうして・・・社長の側にいると思う?」

「・・・ボディガートですか・・?」

まさかな、と思った返事に新藤が、まさか、と言う。

「あの人はな。一人にしておけない人だ。何を始めるかわからん。それこそ知らない町でいきなり
車を乗り捨てて、散歩を始める人だ。わかるか?気まぐれが生きている、そんな人間だ」

と、言われても、今のオレには、西遠がそんな気まぐれな人間にはとても見えなかった。

「さて」

新藤が咳をする。

「問題です。猫にヒモをつけるバカがたまにいるが・・・、イリオモテヤマネコという貴重な
猫がいるのを知っているか?」

「沖縄の・・・。天然記念物か?」

その通りと、新藤がオレを指差した。

「社長はまさにソレだ。飼う事も縛る事も禁止されている。好きな所へ行き、好きな事を
しても許される存在なんだ。だがな。実際は・・・・彼は猫ではない。人間だ。」

大の男が二人で洗面所で向き合い、いったいなんてバカな話を真面目な顔でしているのだろうか。

新藤が続ける。

「お前の仕事は・・・、彼の行くところへついて行く事だ。そして、彼のしたいようにさせて
やる。わかるな?」

頷きながら少しだけ脱力した。

オレでなくても、出来る仕事だ。

まったく男ってのはイヤな性分だと思う。

オレにしか出来ない仕事というもんに、ほとほと憧れるのだ。

その内心を見破ったように新藤が言った。オレの耳元へ。


「側に居る許可が出た人間は、ナカザワ、お前だけだ。少々ワガママだが、猫だと思って
かわいがれ」


カワイガレ・・・。

いや、オレの頭にはその時、やっぱりパシリじゃねえか・・・と浮かんだのだった。






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